出雲雅則プロフィール

会長 あいさつ

大学卒業後修行に出るつもりが、父の計略にまんまとのせられて。

私は高校卒業と同時に戸冨に入社し、家業を手伝い始めました。昼間は働き、夜間に大学で建築を学ぶ毎日です。
 
当時の仕事の大半は、木製建具の製作・据え付けで。その頃はまだ父が、大勢の職人を束ねて仕事を切り盛りしていましたので、私は何か新しい部門で会社の事業を広げていこうと考え、この頃少しずつ普及し始めたアルミ製建具の仕事を積極的に取り込んでいきました。まだ 本格的にアルミサッシが普及する以前の話で、木製の敷、鴨居にアルミ製の建具が使われていた時代です。 
 
一生懸命に働き、お得意さんもそれなりにでき、4年が過ぎていきました。働きながら通った夜学もようやく卒業できるという時期になり、大学の教授には「大手企業に一度就職して、外で経験を積んではどうか」と薦められ、自分でも半分その気になっていました。

ところがその時、父が私のために借金をして、アルミ加工の工場をつくってくれたのです。
父は「借金をつくっておいてやったから、自分で働いて返していけよ」といいます。
 
「え?」喜んでいいのか、憤慨すべきなのか、自分でもよくわかりません。外の企業でいちから修行をするという道がなかったわけでもないのに、父の手で勝手に外堀を埋められてしまった、という状況です。
 
ただ、私にしか担当できないお得意先がすでに何社もあったのは事実だったので、「これもご縁か」とふんぎりをつけ、そのまま当社に残ることにしました。弊社が金属加工の仕事に特化していったのは、そういった経緯からなのです。
 
 
 

私が「特注建築金物のスペシャリスト」になった理由。

そのうちに、木製の建具はどんどん市場が小さくなり、アルミサッシが主流の時代へと移行しました。移行期当初は、早くからアルミ加工に習熟していたので、事業も順調に拡大していったのですが、同業他社が次々に生まれはじめ、時代はバブル全盛期に入ると、メーカー下請け業者の多くは製品の生産量を増やす為 メーカーの支援もあって工場施設の拡大に躍起になっていきました。
 
「設備拡大競争に参入しては絶対にまずい、違う道を行こう」と考え当社は何が強みなのかを考えて見ました。思い至ったのは、たまたま大学で建築を学んでいたお陰で、図面が読めるし描けるという点です。その当時、メーカー下請け業者の大半は、図面が描けませんでした。図面はメーカーさんの守備範囲であったので、必要が無かったのです。

ゆえに私は大量受注の下請け仕事を少しずつ減らしていき、オリジナルな設計図が求められる特注品の仕事へと軸足を移していきました。
 
そうこうするうちにバブルがはじけ、建設業界の仕事は一挙にしぼみました。メーカーの量産品を下請けしていた同業者の多くは、倒産していきましたが、弊社はなんとかこの時期をしのぐことができました。細々とではありますが、建築金物の特注市場は、残り続けていましたし、こうした特殊な仕事ができる金物加工業者は、ごく限られていたからです。
 
今では弊社は、「建築金物で何か困ったことがあったら、とりあえず戸富に聞け」とご支持いただけるほどの評価をいただいていますが、特注建築金物のスペシャリストになるきっっかけというのは、実は競争の激しい世界からの脱出にあったのです。

たくさんの人と競い合ったり、争うことが苦手な私の性格が、自然とこういう道を選ばせたのかもしれません。
 

職人さんたちと生活した幼少時代の原体験が、私の性格を形成した。

一代で財を成す経営者というのはアグレッシブで、人と競争する場にも自ら飛び込んでいき、勝利を収めていく人が多いようです。私はどちらかというと、引っ込み思案な人間で、清濁併せ呑んでばりばりやっていこうというようなパワフルさは持ち合わせていません。ですから経営者仲間からは、いつも冗談めかして、「もっと物事をラフに考えて経営しないと、金儲けはできないぞ」と言われます。
 
何事も目立たず、「中庸」を良しとするような私の性格は、どこで形成されたのか考えてみると、幼少年時代にさかのぼります。江戸時代からほそぼそと続く建具屋であった我が家には、常時住み込みの職人さんが10人以上はいて、日常生活そのものが合宿のような毎日でした。職人さんたちは、毎夜酒を飲み、麻雀や花札などの遊戯を愉しんでおりました。ゆえに私はこのような素晴しい?環境下で成長してまいりました。 
 
親方の息子ということで何かというと「雅、雅」と可愛がってもらいましたが、何しろ職人さんというのは気性が激しく、好き嫌いのはっきりした偏屈な人が多いので、子供ながらにいつも気を配っていました。いったん荒れると、ノミやカンナが飛び交うような世界ですので、「この人たちを怒らせたらあかん」と子供心に理解していたのだと思います。

人の言い分をよく聞き、自分の我を押し通そうとしなくなったのは、こうした幼少時代の原体験が背景になっています。おかげで、人と円滑にコミュニケーションをする術は、しっかり身についたと思っています。
 

残りの人生はもっと積極的な人間になって、私の知識を活かせる仕事で社会貢献。

そんな性格ですので私は、仕事や経営者仲間との活動の場では、誰とでも仲良くできる常識ある大人というふうに見られています。悪く言えば、物事に対して自分から積極的にコミットメントをしない、面白みのない人間ということになります。
 
記憶力、体力の衰えを前にして私は 、「このままではいけない」と考えるようになりました。少なくとも私がこれまでに培ってきた知識やノウハウは、建築金物づくりの世界ではユニークなものです。これを積極的に活用してもらい、「これまで私を育ててくれた業界や社会に対してお役に立ちたい」という気持ちが湧いてきたのです。
 
そこで私は、戸冨の代表という肩書き以外に、「建築の金物専門アドバイザ-」という肩書きを持つようになりました。みなさまも何か、規格外の特注建築金物でお困りのことがありましたら、お気軽に私にご相談ください。

ノウゼンカズラの木が生い茂る環境共生オフィスにお越し下さい。

私は自然が好きで、暇を見つけては山歩きをしています。登山仲間と連れ立って、六甲山の全山縦走にも2回ほど参加したほどです。
 
生活空間の周囲にも自然がほしいと考えて、戸富の本社ビルには、水棲動植物が暮らす小さな池と植栽をふんだんにしつらえています。

とりわけ、ノウゼンカズラの枝やツタが壁面いっぱいにひろがっている弊社のオフィスビルは、近隣でもファンの多い、ちょっとした名物建物になっています。

花が咲く季節になると、オレンジ色の花弁が建物全体にトッピングされたようになり、テーマパークのお城のようになります。こういうビルが増えれば、昨今問題になっている都市のヒートアイランド現象も、少しは緩和されるのではないかと考えています。

お近くにこられた時は、ちょっとユニークな環境共生ビルを見物がてら、ぜひオフィスに遊びに来てください。 
 

略 歴

1971年4月

大阪工業大学建築学課卒

1972年

株式会社 戸冨に入社
木製建具 製造販売に従事
フロントサッシ〔店舗用〕製造に従事
 

1974年

ビルサッシメ-カ-の協力工場としてビルサッシ製造に従事
スチ-ルドア・ステンレスドア製造に従事

1979年

一級建築士〔NO.129425〕登録

1985年

金融機関キャッシュコ-ナ-製造に従事

1987年

医療関係の扉製作に関連し、MRI室用 磁力線遮蔽シ-ルド扉、
ガンマ-ナイフ室用放射線遮蔽扉、防水板 製造に従事

1990年

株式会社 戸冨の代表取締役に就任

1990年

外壁金属パネル製造に従事

2003年

建築金物 情報アドバイザ-としてスタ-ト

建築設計・アドバイザー  出雲雅則  プロフィール